若きスターデザイナーの階段

1974年、東京六本木。その頃になってようやく東京にも若きデザイナーの若々しい芽が育ってきていた。

表参道に菊池武夫(ビギ)、山本寛斎(カンサイ)、外苑に松田光弘、金子功(ニコル)、青山キラー通りにコシノジュンコ、そして、六本木に花井幸子。

マダム・ハナイは華々しい船出を迎える

花井幸子は、アトリエスタッフが20人を超え手狭になった71年に本社を六本木に移し、’73年に六本木ロアビルに2店目の直営ブティックを作った。

六本木、表参道、外苑と近くて仲の良いデザイナーが集まって遊んでいたなか、ふと或る時、「同じ時期(約1週間)にショーを開こうよ」のひと言で、後に東京コレクションの礎となるTD6が結成された。

当時オーダーサロンのデザイナーが集まった団体があったものの、プレタポルテのデザイナーがグループを結成することは、日本で初めての出来事だった。

TD6は、雑誌でもさかんに取り上げられ、4年後には、コシノヒロコ、吉田ひろみ、川久保玲、山本耀司が加わる。TD6発足は、花井幸子が若くしてスターデザイナーの階段を駆け上がる後押しをした。その後、コレクション発表のたびに取材が殺到し、花井幸子は、東京コレクションの中枢メンバーになっていった。

コレクション風景

花井幸子にとってTD6は、設立からのメンバーであるという以上に、この時からコレクションで発表する作品がオートクチュールからプレタポルテに代わったという大きな意味を持つ。

花井幸子も、’70年代に入って、ファッションの主流がオートクチュールからプレタポルテに変わりつつあることを肌で感じていた。’68年の銀座ブティックオープンと同時に始めたプレタポルテのブランド「マダム・ハナイ」は、その後、大きな反響を呼んだ。

ファッション雑誌で若き女性デザイナーとして花井幸子の作品が幾度か紹介されるたびに、多くの読者からの問い合わせとともに、全国の百貨店・専門店から取引出来ないかという話が相次いだ。

雑誌で紹介され大きな反響を呼んだ当時のベストセラーのひとつに、ウールジョーゼットのシャツ襟ワンピースがある。

コレクション風景

1ページで紹介された誌面のタイトルは、「三つのディテール:フレアー、ギャザー、ピンタック」。説明として、「おしゃれな女の子にとって、フレアーとギャザーとピンタックの三つのディテールは、若々しさや可愛らしさや女らしさを自由に表現できる大切な三要素。フレアーの揺れは軽やかな女らしさを、ギャザーのふくらみは可愛らしい女らしさを、繊細なピンタックはやさしい女らしさを表してくれるのです」というコピーが添えられている。

一般的なワンピースが¥8,000の時代に、このシャツ襟ワンピースは¥12,800。輸入生地を使ったものだと、マダム・ハナイのワンピースは¥30,000程。プレタポルテのなかでも、「マダム・ハナイ」コレクションは、当時からお嬢さんのための高級プレタポルテともいわれた。

コレクション風景

「プレタポルテとオートクチュールを巧みに使い分けながら、花井幸子は、年2回のコレクションごとに新しい作品を発表した。

その後会社も以前と比べられないほどに大きくなり、アトリエの製作スタッフは一時30人以上に増えたこともあった。しかし、花井幸子にとって、オートクチュールは今でも心の拠り所であった。

仮縫いを繰り返し、身体にフィットする完璧なシルエットを造るオートクチュールの工程は、「本物の美しい服」を目指す花井幸子にとって、しごく当然なプロセスであった。

仮縫い・フィッティングを繰り返すことでアトリエには素材ごとの様々なパターン、カッティング、縫製の膨大な記録が残る。それはメゾンにとって欠けがえのない財産となり、プレタポルテ製作に大きく貢献してきた。

こうしたオートクチュールの技術の蓄積が、プレタポルテであっても、丹念に、丁寧に、美しい洋服を創る礎になってきたのだった。