新しい時代の扉を開けたオートクチュールの情熱

アトリエにて

1970年、東京杉並、阿佐ヶ谷。花井幸子は、時代がめまぐるしく移り変わる最中にいた。アドセンターを辞め、アトリエを開いて、6年。オーダーを受け製作する注文服のかたわら、広告、雑誌の仕事もかなり増えていた。

6畳二間でパターンナー、縫子さんと3人で始めたアトリエも、すでにその頃には10人以上に増え、気が付いてみれば、部屋をもう一つ借りて倍の広さで、スタッフとともに忙しく仕事をこなす毎日が続いていた。

’68年8月に、銀座に初のブティック「マダム花井」をオープンさせ、そこで初めてプレタポルテのブランド「マダム・ハナイ」を立ち上げた。オーダーのオートクチュール、既製服のプレタポルテ。

70年代は、パリでもプレタポルテが本格的に始まり、時代は、プレタポルテとオートクチュールが交錯しながら、新しいスタイルの扉を開こうとしていた。

当時のデザイン画

花井幸子のキャリアのなかで、ひとつの節目となったのは、アドセンターでの仕事だった。渋谷、南平台にあるコロニアル風の洋館で、フォトグラファー立木義浩、イラストレーター堀内誠一らが所属し、百貨店、合繊メーカー、雑誌の依頼を受け広告等を製作するのが、アドセンターだった。

花井幸子は、ここで広告のためのイラストを描くことから、ファッションデザインやコピーを考えたり、時には撮影用の洋服やアクセサリーの借りだし、撮影時のスタイリングまで、様々なファッションの現場を目の当たりにした。

アクセサリーを合わせることで洋服がひときわ輝いて見えることや、靴や小物の合わせ方ひとつで洋服が全く違った表情を持つことなど、トータルでものを見るデザイナーの視点、いわゆる「スタイル」という考え方を、花井幸子は、誰よりも早く、こうした仕事のなかで見つけていた。

花井幸子は、1970年、初めて注文服(オートクチュール)のコレクションを開く。銀座「マダム花井」を開店して2年後、顧客達は会場の銀座マキシムで花井幸子の処女航海に歓声を上げた。

コレクション風景

パターンやカッティングが未熟でハンガーにだらしなく下がった大量生産の服がほとんどだった時代に、「ユキコ・ハナイ」のコレクションは、パットが入ったまっすぐに伸びた大きな肩からカーブを描いて、細く締まったウエスト、ヒップボーンのミニスカート、もしくはたっぷりと広がったフレアスカートなど、まるで海外のファッション誌から抜け出たようなエレガントなスタイルが次々と登場した。

動きづらさを解消するために袖付けを大きめに取ったり、日本人の体型に合うよう、ボディの身頃も丸く大きめに取ってある。その一方で、痩せて美しく見えるようポイントにパットを入れ、ウエスト部分をバイアスで細く絞るなど、ディテールに凝った「本物の美しい洋服」と「モダンで巧みなデザイン」に惜しみない拍手が送られた。

コレクションのほとんどは輸入生地、Tシャツに肩パットが入っていることや、おそらく日本人デザイナーが初めて作った「YUKIKO HANAI」ロゴ入りオリジナルプリントなど、当時としては驚くような革新的なコレクションも随所に見られた。

コレクション風景

「美しくてもただ古くさいだけの洋服でしたら、興味はありません。私が創りたかったのは、時代にあった革新的でモダンな洋服でした」。

今も花井幸子が目を輝かせてファッションを語る時、彼女の口から絶えず、伝統的なモードの美しさ、下品にならない粋な洋服と同じ意味で、革新という言葉が語られる。

ギャザー、ピンタック、バイアス等のモードの技巧を駆使しながら、巧みなデザインとアイデアによって新しいスタイルを創り出すデザインの魔術とそれを生み出すファッションの情熱は、いつも新しい時代の扉を開けてきた。

ちなみに、花井幸子が理想の女性とするミューズ(女神)は、今も変わらず、30年代に神秘的な美しさで銀幕の女王と謳われたグレタ・ガルボ。

伝統と革新。このふたつが織りなすクールで神秘的な新しい時代の女性を演じたグレタ・ガルボに、花井幸子は、凛として媚びない新しい女性の生き方を投影していたのだろうか。